クロード・モネ(1840-1926)は、1883年、パリからセーヌ河を北西に80キロほど下ったところにあるジヴェルニーに転居し、まだ近代化の及ばない鄙びた農村であったこの場所を気に入りました。1889年に借家だった家と土地を購入すると、画家は庭造りに熱中します。四季折々の花々を植えた本格的な庭園「花の庭」に続き、1893年には道路を隔てて隣接する土地を新たに購入して、睡蓮の池を中心とする「水の庭」を造設します。それは、池に睡蓮、周囲には柳やアイリス、牡丹などを植え、藤棚を伴う太鼓橋をかけた、モネの日本趣味を具現化した庭園でした。
モネが本格的に睡蓮を描き始めるのは、1899年、60歳を目前にした頃からです。1900年には、睡蓮の花咲く池を、周囲の柳などとともに描いた第一連作が26点発表されています。いずれの作品も中景に太鼓橋をおく同じ構図で、光の変化をさまざまな色彩で描き分けたものでした。その後、池を拡張したモネが、再び取り組んだ第二連作において、モネの視点は、しだいに水面に引き寄せられ、やがて水面の広がりだけが画面を覆うようになります。《睡蓮》を見ると、画面左上に柳の枝がわずかに描かれている以外は、睡蓮の花咲く池の水面が画面全体を覆っています。さらに《睡蓮の池》では、睡蓮はより簡略的な描き方に変わり、画面の主役は、水面に映る空の光や樹木の反映へと移行しています。
前述の言葉は、モネが1909年に開催した「睡蓮、水の風景の連作」と題した個展の準備中に美術評論家のギュスターヴ・ジェフロワに宛てて記したものです。この個展には、1903年から1908年にかけて描いた睡蓮の第二連作のうち48点が展示されました。会場に並べられた連作は、まるで一続きの水面を作り出しているように感じられたといいます。この経験は、睡蓮の大作でひとつの部屋を装飾するという構想へと繋がり、その集大成として、オランジュリー美術館の、睡蓮の部屋が残されることになりました。
学芸員:細矢芳
水と反映の風景に取りつかれてしまいました。年老いた私の手には負えないものですが、感じているものを何とか描き出したいと思っています。
ギュスターヴ・ジェフロワ宛て書簡 1908年8月11日