寛文13年2月19日、浅田七右衛門づてに来る。中根平十郎所蔵の掛け幅。千貫、いやそれ以上とでも申すべく候。

雪舟《四季山水図》について

狩野 探幽

これは、この絵をえがいた雪舟のことばではなく、この絵をみて発せられた狩野探幽のことばです。探幽は江戸時代初めの頃の絵師で、鍛治橋狩野家の祖。作品を制作するだけでなく、幕府のお抱え絵師であったことから、たくさんの鑑定を依頼されていました。探幽は持ち込まれた絵について、縮図(スケッチ)を取り、合わせてその日付や所有者の名前、鑑定の結果を書き残していました。それらのメモ書きを、現在《探幽縮図》と呼ぶのですが、その中にこの《四季山水図》についてのメモも残されていたのです。雪舟の絵と探幽の縮図を見比べてみてください。さすが探幽、略筆ながら絵の特徴をよく捉えています。

雪舟《四季山水図》春の図
狩野探幽《探幽縮図》
狩野探幽極め札

左:雪舟《四季山水図》の内 春の図 室町時代(15世紀)、
絹本墨画淡彩
右上:狩野探幽《探幽縮図》江戸時代(17世紀)、
紙本墨画淡彩 京都国立博物館蔵
右下:狩野探幽極め札

この絵には、古い史料がいくつか付随していて、その中に「探幽」の印を押す札4枚も存在します。現在はその4枚をひとつの紙片に貼り付け保存しているのですが、「春」「夏」「秋」「冬」とあることから、もとはそれぞれの掛け幅に貼り付けてあった名札のようなものであったと考えられます。(掛け幅はくるくると巻かれた状態の時、中身がどのような絵なのか分かりません。)それを、なぜ探幽が…。

おそらくこれは極め書きで、先の寛文13年(1673)に探幽のところに作品が持ち込まれた際、書かれたものだと思われます。「これは、雪舟の絵で間違いない」と。この《四季山水図》をよくみると、実はどこにも雪舟のサインはありません。雪舟の時代から100年ほどが経ち、当時の持ち主としてもお墨付きが欲しかったのかもしれませんね。

ところで、《探幽縮図》には膨大な数の縮図が収められているのですが、それらを見ていくと、「千貫にても其上にても」という金額評価はかなり高額!このことから、当時雪舟の絵が人気のあったこと、また、探幽がこの絵を高く評価していることが分かります。そして、何より探幽は、絵師。単なる鑑定に留まらず、しっかりと自分の目でみて、自分の手を使ってかき写すことで、自らの画技を高め、絵の制作に活かそうとする姿勢までもがうかがえる貴重なメモといえます。

学芸員:平間理香

※浅田七衛門:不詳
※中根平十郎:中根正朝(まさとも)(1616−1696)江戸時代
初期の徳川家家臣。家光に仕えた。

雪舟《四季山水図》冬の図
雪舟《四季山水図》秋の図
雪舟《四季山水図》夏の図

雪舟《四季山水図》の内 左:冬の図 中央:秋の図
 右:夏の図 室町時代(15世紀)、絹本墨画淡彩