学芸員が選ぶ隠れた名作
ジャン=フランソワ・ミレー《乳しぼりの女》1854-60年 油彩・カンヴァス 石橋財団アーティゾン美術館
ジャン=フランソワ・ミレー《乳しぼりの女》1854-60年 油彩・カンヴァス 石橋財団アーティゾン美術館
ミレーは、1814年にフランス北西部のノルマンディー地方にあるグリュシー村で生まれました。彼は、シェルブール市で絵の勉強をはじめたのち、1837年にパリに出て、国立美術学校で学びました。初期には肖像画や風俗画を描きましたが、その後、農民の生活を画題として取りあげるようになります。1849年、パリの南東約60キロに位置するバルビゾン村へ移住したミレーは、1875年に没するまで同地で農民画の制作をつづけました。
フォンテーヌブローの森に隣接するバルビゾン村は、この当時、多くの芸術家が集まる「芸術家村」となっていました。なかでも中心的な役割を果たしたミレー、ルソー、コローらをバルビゾン派と呼びます。同時代に活躍したクールベが、狩猟の対象である鹿を多く描いた(fig.1)のに対して、バルビゾン派の画家たちは、牛や羊などの家畜を得意としました。《乳しぼりの女》には、牛の乳をしぼる女性が描かれています。特徴的なかぶり物(コアフ)を身につけていることから、彼女がノルマンディー地方の女性であることがわかります。
サンシエの伝記によると、ミレーはパリに出てからも、毎年のようにグリュシー村で数週間を過ごしていました。とはいうものの、1845年から一年ほどをル・アーヴル市で過ごしたのを最後に、しばらくノルマンディー地方に戻ることができませんでした。次にミレーが帰郷するのは1854年のことでした。1853年4月に母が亡くなったため、1854年5月にミレーは一人でグリュシー村に帰り、きょうだいとともに財産整理に立ち会ったのです。同年6月には家族を連れてふたたび故郷に向かいました。グリュシー村滞在は4ヶ月となり、滞在中に14点の絵画と20枚ほどの素描ができあがり、2冊のクロッキー帳がいっぱいになった、とサンシエは言います。《乳しぼりの女》はこのときのスケッチをもとにした作品です。妹エミリーがモデルである可能性も指摘されています。
バルビゾン派の画家たちは、若い画家たちにも影響を与えました。たとえば20代後半のシスレーは、友人のルノワールとともにマルロット村を訪れました。マルロット村は、フォンテーヌブローの森に隣接する村のひとつです。《森へ行く女たち》(fig.2)には、マルロット村の家並みや薪拾いの女性たち、地面を耕す男性が、落ち着いた色調であらわされています。のちに印象派の画家として活動することになるシスレーも、若い頃にはバルビゾン派からの影響を受けていたのです。
- fig.1
- ギュスターヴ・クールベ《雪の中を駆ける鹿》1856-57年頃 油彩・カンヴァス
- fig.2
- アルフレッド・シスレー《森へ行く女たち》1866年 油彩・カンヴァス