学芸員が選ぶ隠れた名作

ジャン・デュビュッフェ《スカーフを巻くエディット・ボワソナス》1947年、油彩、紙 48.6×32.3cm 石橋財団アーティゾン美術館

ジャン・デュビュッフェ《スカーフを巻くエディット・ボワソナス》1947年、油彩、紙 48.6×32.3cm 石橋財団アーティゾン美術館
©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2020   C3243
女の判別がつかない奇妙な人物が、子どもの落書きを思わせる奔放な筆致で描かれた肖像画です。これを描いたのはジャン・デュビュッフェ(1901-1985)。1901年にル・アーヴルで生まれたフランスの画家です。デュビュッフェは、1918年にパリに出て、美術学校アカデミー・ジュリアンの授業に通いますが、アカデミックな講義の内容に関心を持てず、翌年には退学。以後は独学で絵画制作を試みはじめました。1923年にはサン=シル要塞の気象観測隊隊員として兵役に就き、翌年4月に復員。以後1933年に至るまで制作から遠ざかり、ブエノスアイレスで半年間暖房器具を扱う会社で設計技師として働いたり、故郷ル・アーヴルで家業のワイン卸商に従事するなどして過ごしました。1940年には再び絵筆をとるものの、家業の経営や再びの兵役で画業の中断をしばしば余儀なくされ、創作に専念出来るようになるまでには2年の時間を要しました。1943年にデュビュッフェは評論家のジャン・ポーランと出会い、彼を通して画商ルネ・ドルーアンを紹介されました。そして1944年にようやく最初の個展が開催されたのです。デュビュッフェは、伝統的な様式や技法にとらわれず、西洋文明そのものを否定して、子どもや未開の地の人、精神に障害をかかえる人などによる粗くはあっても生命力が漲る表現を、アール・ブリュット(生の芸術)と呼んで賛美し、自らの芸術制作の契機としました。

の作品もアール・ブリュットの試みが明確にあらわれている作品です。心理的要素が一切排除され、人物はグロテスクではありますが、ユーモラスに表現され、それはモデルの本質に肉薄しています。一見稚拙に見える表現は、伝統的な美術を痛烈に批判し、既成概念に縛られない創造力を目指した結果なのです。デュビュッフェの作品は、具体的なイメージが描かれてはいますが、それはアカデミックな造形理論を否定した、根源的で直接的な衝動の表出のイメージが目指されています。

デルのエディット・ボワソナス(1904-1989)は、スイス出身の詩人、文筆家で、デュビュッフェの近しい友人でした。ボワソナスは、チューリッヒから流れるリマット川沿にある古都バーデンに生まれ、ジュネーヴで育ちました。1927年にジュネーヴ大学の化学の教授となったシャルル・ボワソナスと結婚し、以後スペイン、イギリス、アメリカに滞在し、パリもたびたび訪れていました。詩作を行い、自分の作品を『ユグドラシル』誌に発表したのは1936年のことでした。その後、1939年のパリ滞在時に『新フランス評論』誌編集長をつとめていた、ジャン・ポーランと出会って後、才能を開花させました。ポーランは、1945年にデュビュッフェとスイスを訪れた際に彼女を訪問し、直後の9月に彼女はパリに移住し、以後デュビュッフェと親交を重ねることになりました。この時始まった彼らの書簡の遣り取りは、1980年まで続けられ、それらは後に書簡集として刊行されています(fig.1)。デュビュッフェがこの作品を描いたのは1947年のことでした。翌年夏からは、妻や知人たちの肖像画を同様な手法で描きはじめ、ボワソナスの肖像を起点としてその様式はより自由奔放に展開されました。それらは、1947年10月にパリのギャルリー・ルネ・ドルーアンで開催された第3回個展「彼らは自身が思っている以上に美しい——肖像」で公開されています(fig.2)。
fig.1
『エディット・ボワソナス、ジャン・デュビュッフェ往復書簡と批評 1945-1980年』、2014年刊
fig.2
『ジャン・デュビュッフェ氏による彼らは自分が思っている以上に美しい—肖像』展パンフレット、ギャルリー・ルネ・ドルーアン、1947年