音声ガイドツアー コレクションの中から代表的な16作品をピックアップし、4回にわけてご紹介します。 映像とともに音声ガイドツアーをお楽しみ下さい。 アイコンをクリックすると、作家解説がご覧いただけます。 作家解説をみる ザオ・ウーキー 北京、1921−ニオン(スイス)、2013 宋朝の王族の血を引く名家に生まれ、高い教養を学べる環境に育ちました。出身校・杭州美術学校で教鞭をとったのち、因習的な画壇を嫌って1948年、27歳のときパリに渡りました。詩人アンリ・ミショー、画家ハンス・アルトゥング、ジョルジュ・マチウ、ピエール・スーラージュらと交流。一方でパウル・クレーを知り、その記号的な題材の扱い方を模倣しながら、クレーが中国美術に目を向けていたことに注目しました。このことがザオ自身の出自を再確認するきっかけになります。57年には渡米し、フランツ・クライン、マーク・ロスコらアメリカ抽象表現主義の作家たちと知り合います。60年代は、中国の書を思わせる不定形が画面に立ち現れ、やがて動的なブラッシュワークが画面全体に広がるようになりました。80年代以降は、色彩を空間に解き放つような画面に転換し、中国山水画や抽象表現主義を併せのんだかのような雄渾な作品を制作し続けています。 作家解説をみる パブロ・ピカソ マラガ(スペイン)、1881−ムージャン(フランス)、1973 14歳のとき、一家でバルセロナに移ります。この頃からすでに異常な画才を示します。初めてパリに出るのは1900年。「青の時代」と「サーカスの時代」を経て、07年に《アヴィニヨンの娘たち》を制作中にセザンヌの作品とその絵画理論にふれ、ブラックと共にキュビスムの探究を始めます。第一次大戦中に写実的な肖像画を描き、20年にモニュメンタルな古典的裸婦像を制作して「新古典主義時代」が始まります。25年頃からはシュルレアリスムの影響を受けますが、夢や無意識界の素材を写実的に再現するシュルレアリスムの絵画観にはなじめませんでした。36年にスペイン内乱が勃発。翌37年にスペインのフランコとファシズムの暴挙に抗議して《ゲルニカ》を制作しました。第二次大戦中はパリに留まり、戦後に南フランスのアンティーブやヴァロリスに居を構え、さらにカンヌに移ります。死ぬまでつねに新しい展開を示し、20世紀美術の代表者の位置を保ち続けました。 作家解説をみる ギュスターヴ・モロー パリ、1826−パリ、1898 少年時代に建築家の父からデッサン・絵画を習います。新古典主義のピコのアトリエを経て、1846年国立美術学校に入学。ローマ賞に落選したのち、独学に励みドラクロワやシャセリオーに傾倒。イタリア遊学中、ミケランジェロやカルパッチオに深い感銘を受け、64年のサロン(官展)で受賞。神話や宗教的主題をもとに、高貴で華麗な色彩と繊細な線で、異国情緒にあふれた独創的な画風を展開しました。88年美術アカデミー会員、92年より国立美術学校の教授となり、マティス、ルオー、マルケらの個性をのばした自由な教育で知られています。芸術家にとって最も重要な資質は想像力であり、絵画は内面感情を表現するものだと説いています。色彩、内面性そして創意に満ちた作風によって、モローは19世紀初めのロマン派と世紀末の象徴派の橋渡しをし、20世紀のシュルレアリスムやアンフォルメルにまで影響力を与えた画家といえるでしょう。 作家解説をみる 青木繁 久留米、1882(明治15)−福岡、1911(明治44) 旧久留米藩士の長男として生まれました。1899年に洋画家を志して上京し、小山正太郎の画塾不同舎に入門、翌年東京美術学校西洋画科に入学し黒田清輝らの指導を受けます。上野の図書館に通い古事記や日本書紀をはじめ神話や宗教について知識を養いました。1903年に白馬会展に《黄泉比良坂》などを出品し白馬賞を受賞、翌04年に東京美術学校卒業後、坂本繁二郎や恋人の福田たねらとともに千葉県の南房総へ写生旅行に行きます。そこで制作した《海の幸》は白馬会展に出品され、大きな反響を呼びました。浪漫主義文学やラファエル前派、フランスの世紀末美術などを吸収し装飾性に溢れる青木の作品は注目を集めますが、07年に東京府勧業博覧会に出品した《わだつみのいろこの宮》は自信に反して三等末席に留まります。その後父親の死去に伴い帰省し、以来九州各地を放浪する生活を送るなか、中央画壇への復帰の願い虚しく肺を病んで28年の短い生涯を閉じました。 作家解説をみる 安井曾太郎 京都、1888(明治21)−湯河原、1955(昭和30) 10代半ばで画家を志し、聖護院洋画研究所で梅原龍三郎とともに浅井忠、鹿子木孟郎の指導を受けます。1907年、19歳のときにフランスに渡り、7年間、パリに滞在します。その間、美術学校に通ってあらためて学び直したのち、美術館や画廊で実地に同時代美術を見て様々な影響を吸収しました。ピサロ、ルノワール、そして特にセザンヌに大きく感化を受けます。第一次大戦を機に帰国し、翌年、二科展で滞欧作を発表すると大きな反響を呼びました。しかしその後は日仏の風土や気候の違いもあって画業は低迷します。長い模索を経て29年に突如、のちに「安井様式」と呼ばれる、明快な輪郭と芳醇な色彩の新しい様式を発表しました。以後、人物画、風景画、静物画のそれぞれの分野で、考え抜かれた構図を豊麗な色彩で覆う作品に数多く取り組みました。44年から51年まで東京美術学校(のち東京芸術大学)教授となり、後進の指導にあたりました。 作家解説をみる アンリ・マティス ル・カトー=カンブレジ(フランス)、1869−ニース(フランス)、1954 初め法律の勉強をしていましたが、病気療養中に絵を描き始めたのをきっかけに、画家になろうと決心します。国立美術学校のモロー教室で学び、そこでルオーを知り、やがてマンギャンやカモワンとも親しくなりました。また、装飾美術学校の夜間コースでマルケを知ります。シニャックの影響で点描技法を試みました。1905年のサロン・ドートンヌの一室に展示されて「フォーヴ(野獣)」と名付けられるのは、この美術学校の仲間たちと、マティスが新たに関心をもったドランとヴラマンクです。彼らの多くは07年以降セザンヌ芸術にひかれキュビスムの運動に傾斜していきますが、マティスは単純化された色面の効果を独自に追求します。16年以降は南フランスのニースに滞在することが多くなり、地中海の雰囲気が漂う伝統的なテーマに取り組みます。絵画だけでなく、デッサン、版画、彫刻、陶器なども制作しました。晩年は切り紙絵やヴァンスの礼拝堂の設計も行います。 作家解説をみる エドゥアール・マネ パリ、1832−パリ、1883 ブルジョワ階級出身のマネは、最初官展派の画家の画塾に入りますが、スペイン美術の影響や詩人ボードレールとの交流から、写実的な表現を取り入れるようになりました。しかし写実主義を唱えたクールベが民衆や労働者を題材としたのに対して、マネが描いたのは近代都市パリの風俗でした。《草上の昼食》や《オランピア》をはじめ、時には物議を醸したマネの作品を擁護したのは、ボードレールやマラルメ、ゾラなどの詩人や小説家でした。文学者たちと親交を持っていたマネは、美術界と文学界を結ぶ存在でもありました。日本の浮世絵から多くを学び、浅い空間表現、平面性の強調、大きな筆遣いなど、これまでの西洋絵画にはない要素を大胆に取り入れました。黒の使い方に優れ、明色との対比が斬新な効果を生みました。彼は、後に印象派となる画家たちのリーダー的存在で、彼らに強い影響力を持ちましたが、「印象派のグループ展」には参加せず、サロン(官展)への出品にこだわりました。 作家解説をみる ポール・セザンヌ エクス=アン=プロヴァンス(フランス)、1839−エクス=アン=プロヴァンス、1906 少年時代、ゾラと一緒に詩作にふけり、絵画に熱中します。初期には内面的な苦悩を表現したものを多く描きました。ゾラの勧めでパリに出て画塾アカデミー・シュイスに通い、ピサロ、ギヨマン、バジールなどと親しくなります。マネを中心とする前衛的な若い画家が集まるカフェ・ゲルボワにも顔を出しますが、その雰囲気に溶け込むことができませんでした。都会生活になじめず、故郷エクスとパリとを何度か往復します。ピサロの助力で第1回(1874年)と第3回(77年)の印象派グループ展に参加しますが、作品はほとんど理解されません。80年代以降は故郷にひきこもり、風景画、静物画、人物画、水浴図などのジャンルで造形的な探究を続けます。印象派の過度の分析に反対し画面の構成に意を用いますが、ピサロから学んだ教訓を忠実に守り、自然を前にしたときの感覚を大切にしました。晩年は若い芸術家の賞賛を得て、20世紀美術の先駆者のひとりに位置づけられました。 作家解説をみる フィンセント・ファン・ゴッホ ズンデルト(オランダ)、1853−オヴェール=シュル=オワーズ(フランス)、1890 絵の勉強を始める以前、画廊の見習いや伝道師の職につきますが、いずれも長続きしませんでした。1886年春、弟テオをたよってパリに出ます。当時のパリの前衛絵画である印象派や新印象派、それにトゥールーズ=ロートレックなどを知りました。そして、「もう一つの日本」である南フランスにより多くの光を探しにいく必要を感じ、88年初めにアルルへおもむきます。10月23日に彼の誘いに応じてゴーガンがアルルにやってきますが、2カ月ほどで二人の関係は悲劇的な結末を迎えます。ゴーガンがパリに去ったのち、ゴッホはアルルの病院に入院させられ、その後サン=レミに移ります。彼はそこで、自分を取り巻くすべてのものから脅迫されていると感じ、ますます苦悩に満ちた絵を描きました。90年5月、パリ近郊のオヴェール=シュル=オワーズに転じ、ガッシェ博士のそばに身を落ち着けます。しかし、死を迎えるのまでの期間はわずか70日あまりでした。 作家解説をみる 関根正二 白河、1899(明治32)−東京、1919(大正8) 1914年、15歳のときに幼なじみの伊東深水のつてで印刷会社に就職し、仕事のかたわら一時期、本郷洋画研究所の夜間部に通いますが、ほとんど独学で美術を学びました。職場の同僚の影響から、アナーキズムやオスカー・ワイルド、ニーチェの思想などに親しみます。翌年、早くも16歳で第2回二科展に《死を思う日》が入選。このとき、帰国したばかりの安井曾太郎の滞欧作を見て、色彩の重要性を意識するようになりました。その後、放浪や失意の恋愛を繰り返し、次第に幻想的な作品や宗教的なテーマの作品を、朱色などの強い原色によって描くようになります。18年、二科展で発表した《信仰の悲しみ》は5人の女性がそれぞれの手に花や果物を持ち、草原を歩いていく姿を描いたものですが、そのきっかけは日比谷公園で見た幻の光景だと自身で語っています。貧しく不摂生な生活から肺結核にかかり、翌19年、20歳2カ月で惜しまれながら亡くなりました。 作家解説をみる ピエール=オーギュスト・ルノワール リモージュ(フランス)、1841−カーニュ=シュル=メール(フランス)、1919 4歳頃に家族と共にパリに出ます。経済的に貧しく、陶器の上絵付けの仕事をしました。国立美術学校で学ぶかたわら、官展派の画家シャルル・グレールのアトリエ(画塾)でモネ、シスレー、バジールと親交を結びます。1869年にセーヌ河下流のラ・グルヌイエールでモネと制作した行楽図は印象主義の誕生を示す作品群です。マネの影響下にあったバティニョール派の仲間たちと74年にいわゆる第1回印象派展を開き、第2回展(76年)と第3回展(77年)までは熱心に参加しました。モネとともに光と大気の効果を追求して戸外制作にもとづく風景画を描くかたわら、都市風俗にも早くから関心を示します。80年代初めにアルジェリアやイタリアに旅行。その後、アングルやラファエロなどの古典主義絵画の研究をします。その頃に結婚したアリーヌ・シャリゴとのあいだに3人の子供が生まれました。晩年はパリとカーニュ=シュル=メールに住み、豊満な裸婦像や女性像を多数制作しました。 作家解説をみる パウル・クレー ミュンヘンブーフゼー(スイス)、1879−パリ、1940 父親は音楽教師で、クレー自身もヴァイオリンを得意としました。1898年にミュンヘンに移住。象徴主義の画家シュトゥックから絵画を学びます。1911年以降カンディンスキーやマルクと知り合い、「青騎士」という前衛的なグループに加わります。14年にチュニジアに旅行して色彩に開眼し、それまでの線を主体とする画風から離れます。20−31年、総合造形学校バウハウスでカンディンスキーなどと一緒に教鞭をとります。音楽に比べることができるような明確な造形と色彩の理論を構築しました。表現主義やシュルレアリスムや抽象絵画と深い関わりを持ちながら、そのいずれにも属さない独自な作風を確立します。33年にナチスが政権をとるにおよび、郷里(ベルン近郊)に戻ります。晩年は皮膚硬化症に悩み、ナチスの脅威におびやかされました。作品に悪意や皮肉や堕落のテーマが頻出するようになりますが、造形性の探求は最後までやめませんでした。 作家解説をみる パブロ・ピカソ マラガ(スペイン)、1881−ムージャン(フランス)、1973 14歳のとき、一家でバルセロナに移ります。この頃からすでに異常な画才を示します。初めてパリに出るのは1900年。「青の時代」と「サーカスの時代」を経て、07年に《アヴィニヨンの娘たち》を制作中にセザンヌの作品とその絵画理論にふれ、ブラックと共にキュビスムの探究を始めます。第一次大戦中に写実的な肖像画を描き、20年にモニュメンタルな古典的裸婦像を制作して「新古典主義時代」が始まります。25年頃からはシュルレアリスムの影響を受けますが、夢や無意識界の素材を写実的に再現するシュルレアリスムの絵画観にはなじめませんでした。36年にスペイン内乱が勃発。翌37年にスペインのフランコとファシズムの暴挙に抗議して《ゲルニカ》を制作しました。第二次大戦中はパリに留まり、戦後に南フランスのアンティーブやヴァロリスに居を構え、さらにカンヌに移ります。死ぬまでつねに新しい展開を示し、20世紀美術の代表者の位置を保ち続けました。 作家解説をみる アメデオ・モディリアーニ リヴォルノ(イタリア)、1884−パリ、1920 名門のユダヤ人家庭に生まれたモディリアーニは、フィレンツェとヴェネツィアの美術学校で学んだ後、21歳でパリに出ます。1908−14年にかけて、ブランクーシから手ほどきを受けて、彼は彫刻制作にのめり込みます。石を丸彫りする作業は失敗が許されないので、刻み出される像があらかじめしっかりイメージされていなければなりません。モディリアーニは膨大なデッサンを描いて、対象の持つ造形性や量感などを突き詰めます。経済的事情と健康上の理由から彫刻を断念しますが、彼の迷いのないくっきりとした線描や空間性は彫刻制作の体験によって獲得されました。当時のパリは、世界中から芸術家たちが集まり、一種異様な熱気を醸していました。彼は多くの画家や詩人たちと交流して、様々な前衛芸術に触れますが、肖像画における具象的な独自のスタイルを貫きました。イタリア出身のモディリアーニは、古典主義的なルネサンス美術の基礎の上に、20世紀の人物表現を開花させました。 作家解説をみる 藤島武二 鹿児島、1867(慶応3)−東京、1943(昭和18) 初め日本画を学びましたが、洋画に転向して松岡寿らの指導を受けます。1896年、東京美術学校に西洋画科ができたのを機に、黒田清輝によばれて助教授となり、以後、最晩年まで後進の指導にあたりました。1902年に《天平の面影》を発表するなど、明治浪漫主義の色濃い作品を次々に発表しました。05年から09年までヨーロッパに官費留学します。コルモン、カロリュス=デュランらの指導を受けますが、同時に新しい思潮も吸収しました。特にイタリア滞在中には、のびのびとした筆致で油絵具の特質を生かした人物画、風景画を数多く残しました。20年代前半は、イタリア・ルネサンス風の横顔の女性像を描き、西洋と東洋の融合を追求します。20年代末、皇室からの依頼をきっかけに日の出を求めて各地をまわり、風景画を描くようになりました。蔵王から台湾までを涉猟し、最後は内蒙古で得た題材により《旭日照六合》を完成させました。