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コレクションハイライト

青木繁

久留米市荘島町に生まれました。1899年久留米中学明善校を中退、画家を志して上京し、小山正太郎の画塾不同舎に入門します。翌1900年東京美術学校西洋画科選科に入学、1903年の白馬会第8回展に《黄泉比良坂【よもつひらさか】》などの神話画を出品して白馬賞を受けました。翌1904年7月東京美術学校を卒業すると、坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと共に千葉県館山市の布良【めら】に行き、8月末まで同地に滞在して《海の幸》など海を題材にした秀れた作品を制作しました。同年秋の白馬会第9回展に《海の幸》を発表し、さらに画壇の注目を集めます。1907年東京勧業博覧会に自信作《わだつみのいろこの宮》を出品しますが、本人としては不本意な三等賞に終わりました。同年8月久留米の父親の死去にともない帰省し、以後中央画壇への復帰を目指しますがその希望はかなうことなく、九州各地を放浪、肺病のため死去しました。短いその画業は明治浪漫主義絵画の頂点に位置します。

《海の幸》

1904年 油彩・カンヴァス

青木繁は、美術と文学が交感しあいロマン主義が勃興した時代を代表する画家です。28歳で夭折する生涯は、この時代の先端を駆け抜けたものといえるでしょう。
 1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの《海の幸》です。後年、坂本は、自分が目にした大漁陸揚げの様子を宿に帰って青木に話したところ、翌日からこの作品の制作に取り掛かった、と証言しています。坂本は実際の漁港の情景とはまったく異なるものだと語っていますが、目撃談だけからこうしたイメージを思い浮かべてしまうところに、青木の想像力と創造力のきらめきがよく表れています。
 図柄は、10人の裸体の男が3尾の鮫を担いで、二列縦隊で砂浜を右から左へと行進する様子です。中ほどの人物を見ると、正面から強い光を浴びているのがわかります。青木は布良の地勢や地誌、風俗を体全体で受け留め、それを荒々しい筆づかいと、若々しさ溢れる題材で再創造しました。こうしたイメージを生み出したきっかけについては、青木自身が何も語っていないことから、パルテノン神殿のフリーズ彫刻、イギリスのラファエル前派、当時の雑誌などに載った医薬品の広告、布良の神社の祭礼など、多くの研究者が様々な可能性を指摘しています。

明治の洋画

《海の幸》