浅井忠
《グレーの洗濯場》
1901年 油彩・カンヴァス
浅井忠は、江戸の木挽町にあった佐倉藩士の家の長男として生まれました。日本で初めての官立の美術教育機関となった工部美術学校で、イタリアから招聘されたフォンタネージに師事し、本格的な西洋美術の教育を受けました。バルビゾン派の系譜にあるフォンタネージの指導により、浅井は自然や田園風景を舞台に農作業などの労働にいそしむ人々への賞賛を作品に込めて描きました。
浅井は1900(明治33)年のパリ万博を機に、44歳になる年に初めてフランスに渡りました。この作品は浅井が留学中に訪れたパリ郊外の村グレー=シュル=ロワンで描いたもので、滞欧期の代表作です。グレーはフォンテーヌブローの森近くにある川沿いの村で、今も古い橋や城館、教会といった建築物が残る歴史的な土地です。浅井の他に黒田清輝や和田英作、北欧や北米からも多くの芸術家が集い、芸術家村を形成していました。浅井は2年間の留学中、4度グレーを訪れ、日本人としては最も多くこの地を描いたといわれています。この作品は1901年10月、浅井の4度目のグレー訪問の際に描かれました。洗濯婦という労働者に視線を向ける一方で、画家の関心はむしろ水の反映や光の描写に寄せられています。グレーの地で新たな境地を見出した浅井は、穏やかな光に包まれた、色彩溢れる美しい風景画を数多く制作しました。
浅井は1900(明治33)年のパリ万博を機に、44歳になる年に初めてフランスに渡りました。この作品は浅井が留学中に訪れたパリ郊外の村グレー=シュル=ロワンで描いたもので、滞欧期の代表作です。グレーはフォンテーヌブローの森近くにある川沿いの村で、今も古い橋や城館、教会といった建築物が残る歴史的な土地です。浅井の他に黒田清輝や和田英作、北欧や北米からも多くの芸術家が集い、芸術家村を形成していました。浅井は2年間の留学中、4度グレーを訪れ、日本人としては最も多くこの地を描いたといわれています。この作品は1901年10月、浅井の4度目のグレー訪問の際に描かれました。洗濯婦という労働者に視線を向ける一方で、画家の関心はむしろ水の反映や光の描写に寄せられています。グレーの地で新たな境地を見出した浅井は、穏やかな光に包まれた、色彩溢れる美しい風景画を数多く制作しました。
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