拡大《臥裸婦》

百武兼行

《臥裸婦》

1881年頃  油彩・カンヴァス

百武兼行は、幼少の頃より、佐賀藩最後の藩主鍋島直大のお相手役として、特別な教育を受けて育ちました。西欧理解の進んだ藩で成長し、26歳で明治維新を迎えた後、直大の随員として3度洋行し、10年あまりを海外で過ごすこととなります。33歳の頃、オックスフォード大学で経済学を学ぶかたわら油彩画を教わり、その後、パリのサロンで活躍したレオン・ボナや、王立ローマ美術アカデミー名誉教授チェーザレ・マッカーリに師事するなど、本場の美術教育を授かりました。
この作品は、1881(明治14)年頃、外務書記官としてローマに赴任したときに制作されました。赤、白、黄の意匠の施された深緑色の布を背景に、ルネサンス以来の重要な主題、横たわる裸婦が描かれています。浮き出た肋骨、腕や腰の筋肉など、豊満かつ締まりのある肢体に、動きのある右手指先の表現、私たちを見据える視線。その真に迫る描写は見る者を圧倒せずにはおかないでしょう。美しく強烈な存在感を放つこの女性は、山本芳翠《裸婦》(1882年頃、岐阜県美術館)と並び、日本人が油彩で描いた最初期の裸婦像として知られます。
百武の渡伊に同行した松岡寿は、百武のそばでこのモデルをやや違う角度からとらえた《素描 臥裸婦》(1881年頃、個人蔵)を残しました。このほか同郷の岡田三郎助は、幼少期に百武の作品を見て画家を志します。百武は帰国後早世したため、日本美術界で活躍することはありませんでしたが、初期の日本洋画史に重要な足跡を残したといえます。
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《臥裸婦》