安井曾太郎
《F夫人像》
1939年 油彩・カンヴァス
1934(昭和9)年の《玉蟲先生像》(東北大学)、《金蓉》(東京国立近代美術館)によって、肖像画の名手という評価を得た安井曾太郎には、その後、生涯にわたって肖像画の注文が途絶えることがありませんでした。この女性は、コレクターである福島繁太郎の妻で、随筆家として知られた慶子です。2人は1920年代を主にパリとロンドンで過ごし、アンリ・マティスやジョルジュ・ルオー、パブロ・ピカソなどの同時代の画家から数多くの作品を購入して日本に持ち帰りました。
パリにいた頃にアンドレ・ドランに依頼した慶子の肖像画が、彼女の病気によって制作できなくなったことを残念に思った夫妻は、帰国後、安井に白羽の矢を立てます。慶子は東京目白にあった安井のアトリエに通い、モデルをつとめました。普段は温和な安井が、制作中モデルには恐ろしいばかりの鋭い眼差しを投げ続け、慶子はたいへん疲れたと書き残しています。また彼女は故意に、描きにくそうな細かい縞模様の「安井殺しの服」を身につけて、安井の技量を試そうとしました。安井のほうもその挑戦に、かえって大きな意欲をかき立てられたようです。画家とモデル、注文主との無言の対話は、この画面に見て取ることができます。安井は1930年代後半に入り、次第に華麗な色彩を駆使するようになりました。その安井様式の帰結点をこの肖像画は教えてくれます。この作品の出来上がりに満足した夫妻は、以後、安井と親しく交流を重ねました。
パリにいた頃にアンドレ・ドランに依頼した慶子の肖像画が、彼女の病気によって制作できなくなったことを残念に思った夫妻は、帰国後、安井に白羽の矢を立てます。慶子は東京目白にあった安井のアトリエに通い、モデルをつとめました。普段は温和な安井が、制作中モデルには恐ろしいばかりの鋭い眼差しを投げ続け、慶子はたいへん疲れたと書き残しています。また彼女は故意に、描きにくそうな細かい縞模様の「安井殺しの服」を身につけて、安井の技量を試そうとしました。安井のほうもその挑戦に、かえって大きな意欲をかき立てられたようです。画家とモデル、注文主との無言の対話は、この画面に見て取ることができます。安井は1930年代後半に入り、次第に華麗な色彩を駆使するようになりました。その安井様式の帰結点をこの肖像画は教えてくれます。この作品の出来上がりに満足した夫妻は、以後、安井と親しく交流を重ねました。
その他の作品
もっと見るコレクションハイライト
作品検索